前回2010年12月2日の茨木高校野球部小史では野球部創設時の初代主将そして初代OB会会長立川武衛氏の投稿文を紹介いたしましたが、今回は敗戦後再開された当時の主将のご投稿を概ね正確に紹介いたします。
1945年(昭20年)敗戦後の高校野球(当時は中等学校野球)は敗戦翌年の1946年(昭21年)に再開されました。
戦後の野球の復活は用具の調達、いや何か食べるものを得てからで始まりました。荒れ放題のグランド、劣悪無惨な用具、ペコペコの腹、全ての物質は飢餓状態でありました。
これは現在の常識から考えては筆舌に尽くし難い、経験者以外は理解し得ぬ苦難の時代であったと思います。
米沢氏(2005年死亡)は茨中(現、茨高)卒業の翌年1947年から監督として我々を指導してくださり、その在任中には大阪夏の予選で各1回ずつ決勝戦(1947年)、準決勝戦(1950年)への進出と言う戦績があります。
何分約3800字と言う長文ですので、私の腕前では全文を1度に紹介することは不可能です数回に分けて投稿いたします。何卒最後までお付き合いをおねがいいたします。
野球部復活のあとさき 米沢福徳
終戦と共に軍需工場へ動員されていた者、予科練や、陸海軍の各種学校等から、それぞれの者がどっと学校へ帰ってきたが、学校の受け入れ態勢は整っていなかった。また教科書も全くなく、直ちに授業が出来るものでもなかった。我々は教室にいても何もすることがなく、時々農家へ奉仕に行かされる日々が続いた。それぞれの服装と言えば、ドンゴロスの様な学生服や軍服で、小生も兄貴譲りの襟章をとった軍服であったと思う。当時は女学生でも、モンペは良い方で軍服のズボンを加工したものをはいていた人もいた。まず、総てがそのような時代であった。小生の記憶によると戦前の大阪大会は、浪商、市岡、日新、京阪、興国、扇商の6校が常に強くしのぎを削っていた。開戦の1941年(昭16年)夏は、日新商が予選で優勝しながら全国大会は中止になった。それ以後はボールも皮革品の統制から軟球となり、それも敵性スポーツの禁止ということで全国的に行われなくなり、各球場は戦争の激化と共に芋畠等に変わってしまった。
我々も1943年(昭18年)には軍需工場に動員され、毎日鉄を焼き、ハンマーを振っていた。それでも休みの時間には少しの空き地を見つけては、キャッチボールやトス程度のことは何とかしてやっていた。工員の中にも結構野球の上手な人がいて相手をしてくれたものだ。しかし、野球を正式にやれる時代は、もう2度と来ないのではないかと思う暗い日々であった。そして、1945年(昭20年)8月15日の終戦、復学した時は茨中(現、茨高)自慢のプールは荒れ放題で随分汚れていた。 (次回へ続く)
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秋に入ってようやく遊び事程度ながら野球らしきものを始める気運が起きてきた。小生もかって野球部に在籍していた経験もあったので、早速同好の士を集めて野球を始めようと思い、朝礼の時に「野球班(戦時中より部は、班と呼んでいた)に入りたいものは放課後北庭に集まれ」と伝達してもらった。少人数の応募かと心配しつつ放課後北庭へ行くと、各学年から7・80人の生徒が集まっていて、びっくりしたことを今もはっきりと記憶している。嬉しいことだが、そうなると第一用具が揃わない。この多人数ではどうして練習をして良いものやら、反って途方に暮れるありさまであった。そこで無情な様だがキャッチボールをやらせて下手そうなものを選んで辞めてもらうことにした。今から考えると自分自身が下手なくせに他人によくあの様なことが出来たものだと思うし、あの中には少し練習をすれば名選手になった者がいたかも知れないと冷や汗の出る思いがするのである。
秋が深まった頃ぼつぼつ他校との試合が出来るようになり、関大の千里山グラウンドで千里山中学(私立、のちに茨高、春日丘高に併合)とゲームをした。当日の出で立ちたるや戦闘帽に長袖シャツ、ズボンをまくりあげ腰に手拭いをぶら下げていた。ゲーム挙行については掲示していたので多数の生徒たちが応援に来てくれたものだ。今ならたかが練習試合を野球部員以外の生徒の誰が態々見に来てくれようか。これは当時、野球部オンリーと言った状況で他のスポーツは未だ復活していなかったからだと思う。今や野球は戦勝国アメリカの国技であり、それで無くとも戦前から日本人に適合し愛好されていたスポーツである。戦後のスポーツの復活は野球からであったと言っても過言ではない。当時、体操のある先生が「戦後の茨中(現、茨高)運動各部は野球部の努力に刺激されるところが大きかった」と言われた事をはっきり憶えている。
こうして漸く野球がやれる様になった訳だが我々のプレーは長いブランクがあったり、極端な用具不足で満足に練習が出来ず技術的には取るに足りないものではあった。しかし、長い暗い生活から解放されながら陸海軍の各種学校から帰らなかった学友や、戦争による家庭環境の変化でとうとう復学出来なかった多くの学友に対し、すまないと思う反面、漸く好きなことを懸命に出来る事を喜び、味わえることが如何に幸福であることか本当に楽しい日々の連続であった。
翌1946年(昭21年)全国中等野球大会(現、全国高校野球大会)の復活が公表され、我々の意気は大いに上がった。しかし我々の悩みは用具、就中硬球の調達にあった。
(註、文中の千里山中戦、旧制中学1年の私も観に行きました)
(註)千里山中学との練習試合の時期に関して。
今となっては米沢先輩(2005年死亡)にお尋ねすることは不可能でありますが、千里山中学と練習試合を行った時期が1945年(昭20年)の「秋」と記されている様に思いますが、これは1946年(昭21年)の「春」だと思います。
何故なら1945年8月15日に降伏したわけですから同年の秋には試合ができる状態ではなかったと思います。
それからこの試合を観に行った私は1945年には未だ茨中に入学しておりません、翌1946年の春に茨中の新入生として入学したてのほやほやでした。
元橋先輩(高1回、決勝戦進出時の主将)、多田先輩(高2回、戦後初代マネージャー「男」)色々とアドバイスありがとうございました。
(次回に続く)
当時、戦後のインフレでサラリーマンの給料は500円で凍結されていた。殆どの家庭が1ヶ月500円での生活である。闇市では硬球1個が60円もした。給料1ヶ月分で8個である。単純計算で現在と比較すれば2・3万円したと言えようか(註、この原稿は1983年執筆)。そんな時代であった。仕方がないので暇があれば闇市廻りか古ボールを求めて古物屋を探して歩いたものだ。丸坊主の中学生が古物屋を覗いている姿はさぞかし奇異なものであったろう。見つけ次第、買いたいのだが2・30円もするので2個か3個買うのが精一杯である。それを持って学校へ飛んで帰り、じっとボールを待ちわびている部員達に渡しても、それではとても充分と言える筈もなくボールを確保する事が如何に苦しかったか、今もまざまざと思い出す。ある時部員を集めて「誰か家に硬球の有る者は持ってきてくれ」と言い、「ある」と答えた部員がいたので、急いで吹田の家へ取りに帰し、古びた1個のボールを持ち帰るまで全員じっと待機していた事さえあった。この貴重なボールはすぐに糸が切れボロボロになってしまった。父親の大切な記念品だったのかも知れない。
1個しかボールを持たずに試合に行った事もあった。試合中、糸が切れて替わりのボールの提供を求められてもボールが無かった事や、バット(註、当時は木製バット)が折れてしまって相手から借用した事など恥ずかしい思いをした事もあった。バットも充分乾燥した材料が無いので使っている内にそり返るものが多かった。しかし我々だけがそんな状態であったのではなく、反対の場合もまたあったのである。この時代の球児達は常に貧しい思いをしながら野球一途に取り組んでいたと言える。
当時ならではのエピソードだが、号令をかけることや、全員に一連の集団動作をさせる事を禁止されたことがある。現に野球部でも練習前に準備体操をしていたら、慌てて止めに来た先生がいた。「1・2・3.4…」の号令が軍国主義的でいけないと言うのだ。しかし、全員を規則正しく動かすのに何の合図も無くやれる筈が無く、「せーの、こらしょ」とか「ワン、ツー、スリー、フォー」とかで誤魔化したものの、結果は同じ事で混迷の時代とは言え今考えても正に噴飯ものであった。
1946年(昭21年)の予選前になり、小野氏(中42回)、中川氏(中43回)、不死原氏(中47回)等の援助がありチームらしきものになって来た。続いて山本氏(中24回)、立川氏(中24回、茨中野球部初代主将)等がお見えになり、経済的にもややゆとりが出来てきた。
(次回に続く)
戦後初の1946年(昭21年)の大阪予選は確か36校だったと思う(註54校参加)。藤井寺球場での入場式に参加したが、戦時中の暗幕を縫いなおしたもの(従って真っ黒)や、兵隊服の下着等を直したもの等まちまちであったが、なんとか野球の服装らしきものにはなっていたし、各プレーヤーの目が一様に輝いていたことを今も思い出すのである。藤井寺へ行く途中、城東線(現、環状線)の車中である紳士が「君達、野球をやって腹をへらして親御さんは何も言わないかね」と不思議そうに私に話しかけてきたことがあった。野球に関心のない人から見れば、明日の食糧確保が大問題なのに、わざわざ腹べらしをする我々が疎ましかったのかもしれない。天王寺駅や大阪駅のプラットホームには引揚者や、家無き人たちがホームに座り込み、虚脱状態でいるのをよく見かけたものだ。
梅田の闇市でやっと手に入れたボールを持って地下通路(大阪駅ー阪神)を通る時、両側にはいくつもの死体があった。その間を通って学校へ戻る。あの様な暗い混迷の時代に野球等することはすごく得手勝手なものと思えたかもしれない。この様な情勢下で行われた大阪大会で、我々は3回戦で扇町商に7―0で敗退した。しかし破れて悔いのない大会であった。
1946年(昭21年)の新チームに依る秋季大会は、残念ながら抽選会の連絡不備のため出場出来なかった。翌1947年(昭22年)の春季大会には4強に残り、夏の大阪予選では優勝戦まで進出したチームであった事を考えると
、1946年(昭21年)の秋季大会に出場していたら或いは1947年(昭22年)の選抜大会に出場可能の成績を上げていたかも知れない。今以て心残りのする思い出である。こうして戦後、茨中(現、茨高)野球部復活の幕開けが始まったのである。
「付表}米沢監督在任中の優勝戦及び準優勝戦進出時の戦績
第29回全国中等学校優勝野球大会大阪予選(参加80校)(1947年)
3回戦 茨木中 3-0 興国商
4回戦 茨木中 5-3 八尾中
5回戦 茨木中 8-2 上宮中
準優勝戦 茨木中 2-1 豊中中
優勝戦 浪華商 4-0 茨木中
いきなり3回戦からの登場には驚かされるが、当時はシード制が採用が 採用されえていました。
第32回全国高校野球選手権大会大阪予選(参加89校)(1950年)
1回戦 三島野高 8-1 日新商
2回戦 三島野高 4-1 泉尾高
3回戦 三島野高 4-1 生野高
4回戦 三島野高 8-2 布施高
5回戦 三島野高 12-6 港高
準優勝戦 西野田工 7-3 三島野高
(註)大阪府立茨木高等学校は1948年(昭23年)9月1日から1955年(昭30年)3月31日まで大阪府立三島野高等学校と改称させられていました。
長文になりましたが御一読頂けたら幸いです。
何分約65年以前の事です、御理解不能の箇所がありましたらご質問ください、私の分かる範囲でお答えさせていただきます。
また皆様からのご意見もお待ちしております。
吉川先生、貴重な記憶を文章にしていただいてありがとうございます。
野球の環境は時代とともにかわっておりますが、ただひたすらボールを追いかけた気持ちの原点にふれる思いがしております。野球が好きである・・・だから頑張れるのです。来年もよろしくお願いいたします。
立川先輩に続いて、米澤先輩のご寄稿です。
こちらもよろしくお願いします。