1895(明治28)年創立 1921(大正10)年創部

茨木高校野球部小史

 茨木高校野球部小史(76頁)は1983年に高校4回生を主とした有志によって出版されました。
   資料・文責  桑原一夫(高4回 1985年死去)
   印刷     尾高昇(高7回 1994年死去)
1983年以前のOB/OG諸氏には全員に配付したと記憶しております。
 我が硬式野球部は創部が1921年、そして1915年に始まった全国中等学校野球大会(1948年から全国高等学校野球選手権大会)には1922年の第8回大会から出場しております。
創部当時のことを初代主将であり初代OB会会長の立川武衛氏(中24回 1997年死去)から御寄稿を頂いておりますので、その全文を概ね正確に紹介いたします。

      創部当時のこと    OB会会長 立川武衛
 当時茨木中学は、時の加藤逢吉校長先生(註1)の主旨で一切の対外的試合は禁止されていました。それで通学の地区で倶楽部が組織されていて、年に1・2回のクラブ対抗戦が、野球、庭球、水泳、陸上、柔剣道などが行われていましたが、寄宿舎の自彊会、高槻の常盤倶楽部、茨木倶楽部、三島倶楽部、など記憶にあります。水泳が盛んになり、好選手、好タイムが出てきたので、杉本伝先生(註2)が加藤校長を口説き、大正9年(1920年)の夏、東京帝大主催の戸田の大会に初出場して優勝したのがきっかけとなり、杉本先生の発想で、大正11年(1922年)の夏の野球大会に出場することを目標に、大正10年夏頃からチームを編成して、杉本先生のノックで放課後の練習を始めたのでした。好きな連中が11-2名集まったのでした。正月の3日頃から練習を始めたこともありました。試合相手としては先輩のいた野球部の大阪歯科大、高槻工兵隊は大学の野球選手が沢山入隊してチームを作っている強いチームでした。3回目くらいには勝つことができる程になりました。当時開校して野球の盛んであった生野中学が、沢山の応援団を引きつれて来て、2回試合し、1勝1敗であったこともあります。
 大会の近づいた夏季合宿は、阪神電車沿線の千船に、卒業生の社長である松岡紡績が、当時実業団で優勝したチームをもち、グランドもありましたのを幸いに、御好意により貸してもらって練習しました。合宿は水泳部の高石勝男君(註3)の家が近くにあり、その隣の阿部さんの別荘を借してもらい、炊事一切は高石家の御家族のお世話になりました。随分と自信をつけた積りが、古豪北野中学と1回戦(註4)にぶつかり、戦局利あらず、8対4で敗れた残念な思い出があります。全国中学校野球大会の第1回に優勝した、京都ニ中から野球部長をして居られた、中川先生(数学)が教え子の三高を経て京都帝大の野球部の左翼手で強打者であった、中島要造氏をつれてこられれ、2週間コーチに来て下さって、猛ノックをしてくれた思い出もあります。
 終戦後、小生の隣組に移転して来られ、近くにいた当時の野球部の連中と一統に会合したこともあります。私は大正12年(1923年)春茨木中学を卒業後、神戸にあった関西学院高商部に入学野球部に入りましたが、当時の関学
は夏の全国大会で優勝した、関学中等部の選手が沢山いて、神戸高商と共に関西に於ける強チームで、関東の早稲田、慶応、明治に対抗して居りました。小生も3年で3塁手となり、全国高商大会で2度優勝して、満州、朝鮮、青島(中国)等に招かれ遠征しました。
  発足したチームのメンバー (省略)
 原稿を依頼されましたので、半世紀前の懐かしい思い出にふけることができました。
 (註1)加藤逢吉校長 茨中初代校長
 (註2)杉本伝先生(中9回 1979年死去)1916年日本最初の学校プールを茨中に完成。近大泳法のクロールを日本で初めて採り入れ「水泳茨木」の名を全国に喧伝せしめた水泳界の先駆者。パリ大会から連続して3回の五輪で水泳監督を務めた。 
 (註3)高石勝男氏(中25回 1966年死去)茨中時代、日本で初めてクロールを駆使して、水泳界を席倦。日本泳法を用いる大学選手は到底、歯が立たなかった。1928年アムステルダムオリンピック男子100m自由形銅メダル。800m自由形リレー銀メダル。400m自由形4位。文字通り初期水泳界の若きホープであり、スターであった。
 (註4)原文では1回戦となっているが、公式記録では2回戦となっている。 
  長文になりましたが御一読頂けたら幸いです。

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